プログラミング教育

この記事はhttp://techacademy.jp/magazine/8525を参考に作成しています。

 

プログラミングが小学校の必修科目に

小学校の授業に「プログラミング」が必修科目として追加されるそうだ。果たしてそれは良いことなのだろうか?私的見解ではあるが考察していきたい。
この動きの背景として、IT人材の不足があるようです。経済産業省が発表した「IT人材が不足する予測」では、2020年に36.9万人、2030年には78.9万人の不足が生じるとされている。IT関連ビジネスは、今後も拡大していく兆しを見せているので、需要も拡大していくことは予測がつく。
なぜプログラミングだけが初等教育から必修科目になるほど重要視されているだろうか。これには、2013年6月に発表された政府の成長戦略に盛り込まれた「義務教育段階からのプログラミング教育等のIT教育を推進する」というプログラミング教育の明言から起因しているようだ。さらに、総務省は2025年までにIT人材を新たに100万人育成する方針を発表していることから、国策としてIT人材の強化を考えていることが窺える。

 

日本以外の動き

プログラミング教育の動きが出ているのは、実は日本だけではなかった。

アメリカ
・プログラミング教育の推進を進めるNPO法人Code.orgが活発に活動
・2013年末にオバマ大統領自らがプログラミング教育の必要性を訴える動画が公開

シンガポール
・経済の活性化を目的にプログラミング教育が推進される
・公立学校にプログラミング授業を積極的な導入を検討

エストニア
・小学校1年生からプログラミング教育することを発表
・国民の7割がオンラインバンキングを利用するなどITが発達・浸透している

イギリス
・2012年に教師へのプログラミング教育を開始すると発表

フィンランド
・2016年からプログラミング教育が小学校の必修科目に
・ネット接続する権利を国が保証するなどITを重要視している

 

なぜプログラミングなのか

インターネットが登場してから、プログラミングがぐっと身近な存在になったと感じている。もちろんそれ以前にもコンピュータを用いた電算処理は存在していたが、人的な労力をかけて入力などの作業を行ってから処理をする完全自動化はされていなかった。ところがモノのインターネットと言われる「IoT(Internet of Things、IoT)」が登場してから、完全自動化されることが飛躍的に増えたのではないだろうか。

例えば、「外気温が35度を超えたらリビングのエアコンを稼働させる」というプログラムがあった場合の処理を考えてみよう。
1)室外に設置されたセンターが気温を観測、計測データを管理コンピュータに送信
2)管理コンピュータはセンサーから送られるデータを参照。「39℃」以上の値をトリガーにしてエアコンに起動命令を発信する
3)起動命令を受信したエアコンが稼働をはじめ室内を冷やす

上記に登場する「室外センサ―」、「管理コンピュータ」、「エアコン」はそれぞれ独自の役割を果たしつつ、通信でつながっている。また、それぞれの役割を全うするために「プログラム」が組み込まれている。
プログラムは難しく思われがちだが、シンプルに言えば「input→処理→output」をする仕組みとなる。
室外センサ―なら、測定した気温をinputして、数値化された値outputする。さらにその値のoutputをトリガーにして、通信をする。といった具合に一つ一つの処理は単純である。こういった処理をいくつも連結させて、複雑な処理へと昇華させている。

少々話がそれたので戻す。
例で紹介したそれぞれにプログラミングが必要だ。このようなIoTは驚くほど速く、広範囲に拡大をしている。あらゆる場面や製品にプログラムが組み込まれる日もそう遠くはない。そうなるとプログラマー需要は非常に高くなる。もしプログラマー不足が深刻な事態に陥ると、日本の製造業はモノを作れなくなってしまうかも知れない。そして輸出による外貨獲得もままならなくなり、景気も落ち込んでいく。
でもこれって、IT業界に限った話ではないと思う。
たとえば、自動車産業が衰退するとなったら、日本は小学校で自動車開発に寄与する教育を行うのか?とても違和感がある。

 

プログラムはIT産業の一部門

プログラムも「言語」であるが、国語や英語にならんで習得すべきものなのだろうか。
英語教育は、グローバル化を先んじて日本人も他国の人間とコミュニケーションをとる必要性から始まった。と思う。その背景には、グローバルビジネスで競争力を得るため、という命題もあったはずだ。いまや英語は国数理社と並ぶ教科として完全に浸透した。
英語教育が始まるころ、なぜ英語を学ばなければいけないのか理解できない人もいただろう。英語を習ったって、周りに外国人はいないじゃないか。と思っただろう。それがどうだろう。いまや日本を訪れる外国人は増加の一途をたどり、外国人を目にしない日はないほどだ。
通りすがりに道を聞かれたり、電車の乗り方を聞かれることだって、一度や二度ではないはず。飲み屋やバーで隣り合わせて、同じ時間を楽しむことも珍しい話ではない。こういったコミュニケーションができるのは、英語教育の賜物だと思う。(学習している期間が長い割には話せない、という課題もあるがここでは触れない)
ではプログラミングを覚えると生活が変わるのだろうか?
10年後、20年後の生活を想像するのは、なかなか難しい。大きなパラダイムシフトによって、プログラミングなしには生活が不便になる、ことにもなる知れないが、普通に考えれば支障をきたすことはないだろう。プログラミングは、IT産業における一つの部門なのである。それが生活に侵食してきて、基礎教養として必要になるというのは考えにくい。プログラミングをはじめ、デジタル技術の発達、リテラシーの向上で生活が豊かに便利になることは、きっとあるだろう。現実にいまだってそうだ。それは個人の趣味趣向であって「教育」して培うべき種類のものではないと個人的に感じる。
初等教育でプログラミングを取り入れることに危惧もある。合理的なプログラミング思考は大いに結構だが、ダイバーシティと相反することにならないだろうか。まだ自己が定まっていない形成期の少年少女を型に嵌めることにはならないだろうか。教育は、視野を広くするこができ、将来の様々な可能性を見出すことのできる素晴らしいものであるが、一方で思考を凝り固まらせる足枷のようで、諸刃の剣ではないかと思っている。プログラミング教育が、経済成長に貢献する一方で、自らを傷つける刃にならないことを祈るばかりだ。